【ブラタモリ】忍者「なぜ伊賀はNINJAの里になったのか? 」番組内容。甲賀市の土塁の館・城と解釈が違う?

posted:2020-03-03 | koka ninja clouds | 甲賀市・忍ブログ, 甲賀衆

ブラタモリでは、先週・今週と2回にわたり、伊賀と甲賀の特集です。
伊賀は丸ごと忍者でしたが、予告を見ると甲賀は信楽焼きになりそう?です。
そこで、伊賀の忍者関連の内容をメモしておきます。

 
ここでも、甲賀市と同じように土塁に囲まれた城(土塁の館)が出てくるのですが、ちょっと違う。
甲賀市の城が、住居の背後にある(家の周りのものもある)に対して、伊賀で紹介されたのは土塁に囲まれた館で、隣の農家から自宅を守るためだったらしい。その理由は、川の氾濫を避けられる場所の取り合いらしい。

甲賀では、有事の際に立てこもるため…というのを、研究者から聞いたことがある
Google Mapで土塁の館の立地を見ると、伊賀も甲賀も似たような場所に見えるので、全く違う理由とも思えないが、もう少し落ち着いて聞けば繋がるのかもしれない。

ブラタモリ「なぜ伊賀はNINJAの里になったのか?」

三重県伊賀市、伊賀上野城からスタート。
「日本1、2で有名な高石垣」の上からお堀を覗く。高さ約30m。

そこへ忍者登場。本日のお題「なぜ伊賀はNINJAの里になったのか?」
三重大学国際忍者研究センター・山田雄司氏 登場

忍者博物館へ。忍者の戦いを見学。
忍者屋敷。どんでん返し、手裏剣、火薬が登場。

伊賀は、忍者が伝説的なスーパーマンにする重要な役割を果たした場所。
忍者のルーツを探りに行く。

伊賀川東。
伊賀市教育委員会・笹井氏 登場。
土塁に囲まれた農家が現れる。1m〜2m程の高さ。
土塁の館は、500年前作られ、伊賀に650軒ある。
土塁の目的は、付近の家々・武装農民からの防御のためだった。
鎌を束ねた「鉤なわ」という道具を使って、石垣・土塀などを登って情報収集した。

なぜ、農民は争うことになったのか?
それは、この地域の地形が理由にある。
伊賀全体が、山に囲まれ谷が入り組んでいる。
土塁の館は、山裾・谷沿いにある。川の氾濫のため少し高い場所を奪い合った。
そのことが、武装農民(忍者)が生まれるきっかけになった。

服部川へ。
琵琶湖博物館・里口氏 登場。
川原へ。川底が露出しており、この辺りの地層が見える。
泥岩。そこにサンゴの化石が見つかる。
淡水のイガタニシの化石、これは琵琶湖の痕跡。
もろい地層が隆起している。雨が降ると削られて谷がたくさんできる。
これが忍者を生んだ地形を作った。

琵琶湖の移動。
360万年前。琵琶湖の元になる湖。断層ができそこへ水が流れ込む。
これを繰り返し、今の琵琶湖の場所まで移動した。

忍者が、どうやって能力を身につけたのか?がわかる場所・名張市へ。
朝日山・弥◯寺。
高下駄を履いている、天狗?行者さん?の像がある。
役行者(えんのぎょうじゃ)の像。修験道の開祖。
伊賀には役行者の像が100以上ある。
伊賀は、行者の修行(修験道)がさかんで、そこから農民が知識を学んだ。
山伏は、山を駆け巡り、各地を回る情報収集能力、周辺地域の地形把握、
薬草、狼煙などの火を使う能力を持ち、それが忍者へ発展して行った。

しかし、この時点では忍者はローカルな存在だった。
戦国時代、伊賀=忍者の里というイメージを決定する、信長との戦い・天正伊賀の乱があった。
それまで互いに争っていた伊賀農民同士が、一致団結し信長に対抗した。
この時の戦いぶりが語られ全国的に有名になった。
伊賀中世城館調査会・福井 氏登場
信長50,000に対し、伊賀1,600で20日間耐えた。
伊賀・柏原城に拠点。その周りに泥田が囲み、織田軍を引き込み、地形の利を利用して苦戦させた。
土塁の城へ。
土塁の壁に、低いとこを作り空堀に向けて、石・材木などを落として攻撃した。

その戦いを知った大名が、伊賀の農民をスカウトした。
そのなかで有名な大名が徳川家康。服部伴蔵を重用した。

家康から認められた忍者だったが、江戸時代に入り運命が変わった。
伊賀上野の城下町へ。
ここには、江戸時代の忍者の痕跡がある。
武家屋敷が広がる地域。忍町。江戸時代に忍者が住んでいた町。
伊賀は、大和街道、伊賀街道の要衝。伊賀を任された家康の腹心・藤堂高虎が忍者を住まわせた。

伊賀を巡り、江戸時代の痕跡を見る。
馬場の跡を見つけるが、もともとは掘を作るつもりだった。
1615年以降、世の中が安定してくると、大げさな警備が必要なくなってきた。
それに伴い、忍者の能力も必要なくなって行く。
サラリーマン忍者になっていく。

それに危機感を感じた忍者が最後の一手を打つ。
武家屋敷へ。
「万川集海」という「忍術書」が登場。
江戸時代にまとめられた秘伝の書。
まとめられたのは1676年、すでに忍者の活躍の場所は無くなっていた。
忍者が、自分たちの存在をPRするために書いたことが見て取れる。

万川集海の中身を見る。
「水蜘蛛」の設計図が書かれているが、最後に「口伝」と書かれていて、重要な使い方は書かれていない。
水蜘蛛の使い方を想像する。知られているイメージとは少し違うよう。

つまり、全てを書かなかった忍術書が、かえって謎めいた存在となった忍者。
後世の人は、そこに様々な想像を膨らませ、並外れた力を持つスーパーマンのような存在を信じるようになった。
それが世界に広まった。

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